「緑さん、スペルト粉の賞味期限が切れてるわよ。使っちゃうよ。」と、娘は私の台所を乗っ取る。
いい加減な分量。慣れた手つき。ふうん、なるほど。カウンターのこっち側から見ているのは楽しい。膨らんだパン種にオリーブペーストを広げて、胡桃とローズマリーを散らして、くるくるっと巻いて、上に胡桃を飾って、型に入れて焼く。
「緑さん、スペルト粉の賞味期限が切れてるわよ。使っちゃうよ。」と、娘は私の台所を乗っ取る。
いい加減な分量。慣れた手つき。ふうん、なるほど。カウンターのこっち側から見ているのは楽しい。膨らんだパン種にオリーブペーストを広げて、胡桃とローズマリーを散らして、くるくるっと巻いて、上に胡桃を飾って、型に入れて焼く。
「ミステリー・ドライブだよ」と、友だち夫妻が私を連れ出してくれる。お昼ご飯をご馳走するって、何処に行くのかな。ゆったりした助手席が心地いい。
まず西へ走って、それから海岸沿いに北上して、グレネルグビーチ、ウェストビーチ、ヘンリービーチを通り過ぎて、グレンジ、テニソン、セマフォアも過ぎて、小一時間で、アデレードのいちばん北の桟橋があるラーグス・ベイまで。ここまで来るのは初めてだ。
車を降りるとすぐに、ひんやりした空気に包まれる。海の匂いがする。大きい空と海と水平線と砂浜が、視界いっぱいに広がっている。その真っただ中に歩いて入って行くと、何という清々しさ!何という開放感!体が軽〜くなってバランスを失いそう!ほんの30分ほどの間に陽が差したり小雨が降ったり虹が出たり。
帰りの電車を逃してしまった!土曜日は1時間に1本だけだった!まあいいや、失敗を楽しめばいいさ。時間はたっぷりある。
そのあたりでウィンドウショッピングをしていてフト思い出す。アデレード駅のビルの中に「カジノ」があるのだった。ちょっと覗いてみよう。門番のおじさんに「ハロー!」と笑顔で挨拶して観光客そのものの気分と雰囲気で入っていく。8年振りぐらいかなあ・・・まだ明るい時間だからお客さんは少ない。
ふーん、ルーレットかぁ。これは運だけなんだ。せっかく来たんだから、やってみよう。いちばん安い2ドル50セントのチップを4枚買う。適当に選んだ4つの数字の真ん中にチップを一枚だけ置く。「賭けるのは、これまで。」というディーラーの声でルーレットが回って、玉が逆方向に投げ入れられる。外れるに決まっているから期待なんかしない。
ところが、なんと、なんと、一発で、私が選んだ数字のひとつに玉がピタリと止まったではないか!一瞬、唖然として、それから控えめに「やったぁ!」と叫ぶ。換金すると27ドル50セント。ビギナーズ・ラックだ!
大急ぎで電車のホームに行くと、またも電車は出たあとだった。まあいいさ。時間はたっぷりあるさ。喫茶店に行って儲けたお金でカプチーノを買って、ゆっくり本を読む。
アデレード駅の北側にあるトレンズ川を渡って、公園を横切って15分ほどの散歩を楽しむと「セント・ピーターズ大聖堂」に到着する。
「教会の町」と言われるアデレードの中でもいちばん有名な教会で、観光スポットになっている。落ち着いた雰囲気の礼拝堂は60メートルの奥行きがあり、ステンドグラスが美しい。ここの聖歌隊も有名だそうだから、また日曜日にでも来てみよう。今日は観光が目的で来たわけではない。
教会の中庭にある小さなコンサートホールで杏吾ちゃんがフルートの独奏をするのだ。演奏が始まると「観光客」から「お婆ちゃん」に変身して、じっと耳を澄ます。
家からトレンズ・パーク駅まで10分歩く。無人駅のホームで待っていると、遠くから2両編成の可愛い電車がやって来て止まる。ボタンを押すとドアが開いて乗り込む。今日は「シニア・カード」の使い初めだ。
電車は空いている。土曜日なので仕事に行く人や学生は少なくシニアのお客さんが目立つ。シニアのカップルっていいなあ。
ホームの所定位置で車椅子の人が待っている。運転手さんは電車を止めると運転席から出てきて、収納棚から折りたたんだ板を取り出して、ホームと電車の間に掛け渡す。車椅子の人が無事に電車に乗り込むのを見届けて、板をたたんで棚に収めて運転席に戻る。ワンマンカーなのだ。窓からの景色や乗り降りする人たちを見ていると、あっという間の20分でアデレード駅に着く。
見慣れたアデレード駅も隣の州議事堂も、ちょっと違って新鮮に見える。そして私は観光客のような気がするのは、電車でやってきたからかな?「シニア・カード」のマッジックかな?
永住権があって、60歳以上で、週に20時間以上働いていないことが条件。退職して資格が出来たので、州政府に申請すると2週間で届いた。やったあ!
まず、バスと電車とトラムに無料で乗れる。これがいちばん嬉しい。ラッシュアワーには1ドル75セントかかるけど、それでも普通料金の半額以下だ。
車で街に出ると映画代より駐車料金の方が高くなったりする。今まではお金より時間を節約しなければならなかったけど、これからは逆だ。電車で行こう。バスに乗ろう。
恋しさ募って、タクシーに乗ってファーマーズ・マーケットに出かける。
マーケットが大好きな人たちと生産者たちとの信頼と親しみが作る雰囲気の中に、コーヒーの香り、花の香り、パンの匂いが漂う。人々の話し声、笑い声、新聞売りの声、バスカーが弾くギターの音色。マーケットはいつも賑やかで活気に満ちているけど、騒がしくはない。むしろ静かだ。
美味しそうな季節の野菜や果物やパンやお菓子を眺めながら歩いて回ると・・・引っぱっているショッピングカートも手提げバッグもたちまちいっぱいになる。
新しい生産者がお店を出していた。売っているのはベーコンとソーセージ、バターとクリーム。それだけ。安くはないけど試食するとどれも美味しい。ソーセージにはセイジとフェネルとガーリックが入っていて添加物や澱粉はもちろん入っていない。
友達の車で送って貰って家に帰ると、早速ソーセージと青菜を炒めて、軽く焼いたパンにバターを塗って、簡単で美味しくて幸せなお昼ご飯。
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を100ページほど読み進んだところで、 “Le mal du pays ” という曲を聴いてみたくなった。さっそくインターネットで探す。
切なく美しいピアノ曲を聴きながら、200以上ものコメントが寄せられていることに気が付く。どのコメントも『色彩を持たない•・・』を読んだ人たちからのものだ。エジプトから、オランダから、イタリアから、フランスから、ハンガリアから、チリから・・・。
世界中の沢山の人たちが、 MURAKAMI を読んで、ユーチューブでこの曲を聴いていることに、ちょっと驚き、ちょっと感動する。
もっと驚いたのは、ユニバーサル・ミュージック(日本)の宣伝だ。「『色彩を持たない・・』に出てくる「巡礼の年」の全曲を、ラザール・ベルマンの演奏で。」と、本が出版されて一ヶ月後にはもう、CDが特別販売されている。なるほど。